糸蒟蒻ミャクミャクのつぶやく随筆

思ったことだらだら話す

カレー運びのエンターテイナー

家族でよく行くカレー屋さんがある。
いつも接客してくださるのはおそらくアルバイトの人たちなので、「このお店といえばこの人」みたいなことはない。

 

ある日、いつものようにそのカレー屋さんに家族で足を運んだ。

窓際の角にある4人がけのテーブルに座り、注文を済ませ、しばしカレーが来るまで待っていた。

 

 

 

「右後ろから失礼イタシマスッ」

 

 

 

右後ろ?と思って声の主を探す。
私は窓際の角に座っていた。斜め前に座っている父の後ろに目線を移す。

父から見て右後ろ、大股3歩分は確実に離れたその先に、カレーの載ったお盆を右手に持ち、至極丁寧に腰を落とし、私たち家族の視界に入っているとは言い難いその場所で深々と挨拶をしている店員さんが目に入った。あと少し小声だったらたぶん気づかなかった。

その店員さんは短髪で細身の男の人で、パッと見の印象だが、俳優の坂口涼太郎さんに似ていた。(ひょっこりはんに似ている人)

父側にももう一つテーブル席があるので、そこに運ぶ可能性もあり得る遠さだ。

私以外は当然気づいていない様子で、私はその見たことないほどの接客の丁寧さに笑いと感動が止まらなかった。

スッと私たちのテーブルに現れた店員さんに、私以外の3人はちょっと「わぁっ」となっていた。「お待たせいたしました」とかは言わないんだ!!!と、もう私はこの時点でその店員さんに釘付けだった。

「〇〇カレーのお客様。前失礼イタシマスッ」

ここらへんからその店員さんを認識していたら、いつも通りの夕食時間を過ごしていたと思う。

食べている間は家族にその店員さんの話をせず、頭の中で『右後ろから失礼イタシマスッ』がリフレインしていた。

 

レジでお会計をしている時、聞き覚えのある声がした。

 

 

「後ろ通過イタシマスッ!!!」

 

通過?車両か何か?と思ったが、やはり先ほどの右後ろニキがカレーの載ったお盆を両手で大切に大切に持ち、言葉通り腰の低い忍び足で、しかし素早く私たちの後ろを通過した。
ちょっと大袈裟に言うならば、カレーが美味しいだけでも私たちは幸せな気持ちで帰れるのに、ちょっとした大道芸を見た後のようなスキップしたい気持ちになった。

 

接客にエンタメを取り入れているつもりがなさそうなのが、エンタメだなあと、自称エンタメ愛好家の私は勝手に感心する。

 

帰り道は、母と右後ろニキの話題で持ちきりだった。

「次食べに行った時もっと遠いとこで『東側から失礼します』とか言ってたらどうする?」
「毎日ひとりで反省会開いて、びっしりノートにメモしてそう」
「日々の反省の成果で一周回ってターンしながら運んでくるかもよ」
「月曜から夜更かしとかに出そう」

近い将来、右後ろニキがカレー運びのプロになってテレビに出ていたら全力で応援しようと思う。

 

江戸マリー

 

私は江戸マリーが大好きだ。

江戸マリーを知るきっかけとなった「ハチミツ!!(旧:深夜のハチミツBee the top!)」が今月で終わってしまう寂しさと、来月から新しい職場で働く緊張と不安を節目として気持ちを新たにするためにも、私のこじらせたオタク心を吐き出して次年度を迎えようと思う。

 

 

私は江戸マリーが大好きだ。お笑いが好きになったきっかけも、推しも令和ロマンだけれど、令和ロマンもエルフもラランドも人間横丁も9番街レトロもヨネダ2000もその他etc盛りだくさんの芸人さんを心からリスペクトしている。

 

特に、「この人たちにどんな形でもいいから暖かく幸せな日の目を浴びて欲しい、、、!」と心の底から思ったのが江戸マリーである。

 

といいながらも劇場でネタを見たことがない。足を運びたくても、時間とお金と行動力が豆粒ほどしかないので配信も見たことがない。数多あるお笑いコンテンツで楽しませていただいているただのお笑いファンが、劇場に足を運ぶこともせず江戸マリーのファンを名乗っていいのか?という自意識と、行き場のない江戸マリー愛をそのままにしておくわけにもいかず、このような形でだらだらしゃべることを決意し筆をとった。

 

前置きが長くなってしまったが、まだ喋りたい前置きがいくつかある。

なぜ江戸マリーについて語りたくなったか。江戸マリーのYouTubeチャンネル「江戸マリーの珍雰館」が大好きで、はじめて間もないチャンネルなのですぐに上がっている全動画を見終わってしまう。となるとお気に入りの動画を見返すか、昨年5月から始まったラジオ「江戸マリーのひゅ〜どろろ」を聴き直すくらいしか江戸マリー時間を過ごすことはできない。何かまだ見ていないコンテンツはないかと、優秀で頭が上がらない、Xの非公式アカウント「江戸マリーinfo」さんのお力を借りる。サイトも作ってくださっているので今追えるコンテンツがひと目でわかる。ある程度見た事のある名前たちの中に、見た事のないものがあった。「livedoor Blog」というもの。開くと、角井さんが2021年頃からはじめたブログだった。存在自体を知らなかったので、見つけられた嬉しさと角井さんのまあるい文才で読み進める手が止まらない。久しぶりに泣いてしまった文章がある。いちファンが許可もなく引用していいか分からないので、タイトルだけ紹介する。


「編み物」。ぜひ趣味のジャンル問わず誰でも読んで欲しい。

角井さんのおばあちゃん、“ねーねー”がコロナで亡くなった時の状況や気持ちを赤裸々に綴っている。誰かに届けたい気持ちよりも、ねーねーへの愛と目の前にある現実を受け入れたくない角井さんの思いがひしひしと伝わってくる。可哀想とかそういうのよりも、こんなに感受性が豊かな角井さんだから私は大好きになったんだな、と思えた。自分の気持ちや状況を文章に残すことで自分を救っていいんだ、と思った。だから今熱量を持って話せる江戸マリーのことを語ってみようと思う。

投稿されているブログを全て読み終わった時、誠に勝手ながら「私に似ている」と思った。前から似ているかも?とは思っていた。いろいろなことを気にしているとことか、こうやって一つのことに対して数珠繋ぎのように言葉が溢れ出してしまった結果何言ってるか理解してもらいづらいところとか、体力があんまりなくて家に引き篭もるのが大好きなところとか、大人数が苦手なところとか、電車などの公共機関で人に迷惑をかけている人をみて、その人に疑問を持つというより状況の全てを把握して一つ一つを考えすぎて行動に起こせないとことか、ほんとに勝手に共感して、勝手に救われてしまった。でも私は角井さんのように個性的でセンスあるファッションやボケはできないし、誰かに影響を与えられてはいない。おこがましくも似ているところを見つけてしまうくらい角井さんという芸人さんにハマっているのである。

他にも、ブログで好きな回がいくつかある。
“相方”が出てくる回である。もちろん伴さんのことだと思う。
小松菜奈さんが結婚してショックを受けている“相方”をじっと見守るだけの「ショック」とか、“相方”が大をしたくなってトイレに行って出てきただけの話「秋晴れ」とか、写真撮影で2人でカッコつけたけど角井さんしかサイトに載っていなかった「アーティスティック」とか、とにかく、結成して間もないけれど兄妹みたいな仲の良さが伺えてちょっと口角があがる角井さんのまあるい文章。ツイートではなくブログで残してくれて誠にありがとうございます、つの様、仏様、ぷっぷくぷっぷっぷー、、、とオタク心を胸に噛み締める。(YouTubeの卓球回の罰ゲーム参照)

去年のM1では初の三回戦進出を果たした。角井さんのブログでも、3年ぐらい前の目標に「M1三回戦進出」があったので、「すごいです、良かったですね」と過去の角井さんに握手する。


ちなみに誰に断るでもなく言っておきたいのだが、私は別に角井さんと伴さんの顔ファンとかリアコとかそういうのではない。関係性も含めてお2人の限られたコンテンツから垣間見える人間性が大好きなのである。人間性がお笑いを形作ると勝手に思っているので、私のツボにドンピシャどころか宝箱の中に仲間入りした。

どれぐらい大好きかというと、パスワードの文字列に何かしらの江戸マリーの要素を入れるとか、曇った窓ガラスに指で「江戸マリー」と書いてしまうとか、衣•食•住•お笑い•江戸マリーとか、面白い番組の企画を見ていると「江戸マリーにもやってほしいなあ」と思うとか、そんな感じだ。

角井さんは雲みたいにふわふわで繊細で、伴さんは見た目に反して海ぐらい心が広いなあと勝手に思っている(波は基本穏やかだが荒れている時もありそう)ので、2人は循環しているのかもしれない。

珍雰館の前のYouTubeチャンネル「雲食べたいちゃんねる」の動画が見たい。なぜ非公開になっているのかわからないのでもしかしたらもう公開するつもりはないのかもしれないけど、私みたいな物好きなファンもいるので、いつか見れる時がくると嬉しいな!と勝手に希望を持っている。

 

ファンレターを書くとか、DM送るとか、そういうことがなぜか小っ恥ずかしくてできないのでこのブログに書いて消化する。幸いにも、江戸マリーはファンアート肯定派みたいなので(ラジオで言っていた)、ファンアートぐらいは始めてみてもいいかもしれない、などと ぶつくさ心の中でつぶやく。

 

ネットは嫌な面もあるが人間だって同じようなものなので、ネットが普及し発展した現代社会にオタク心を宿して生まれて良かったなあと思う。

この長文•駄文を要約すると、私は江戸マリーの存在に救われました、大好きです。ってことなのは言うまでもない。

もしも芸能人だったら

「もしも私が芸人だったら」
昼過ぎまで寝るのは普通すぎるか。
「もしも私が作家だったら」
SNSとブログの更新頻度少なすぎるか
「もしも私が俳優だったら」
このスキンケア紹介したら爆売れするから経済ぶん回しちゃうかもなあ

 

すべて意味のない妄想である。すべては私の自己意識が生んだ虚構だ。自意識ではない、自己意識。自意識過剰とか言うけれど、それは他人からの目を意識した、言ってしまえば一生手に取ることのできない他人の心を手に取った気になること。
私の考える自己意識とは、自分が何者であるか。過去の自分は何者として生きてきて、何者になるのが最適かを考えること。これには「自我」が必要だと考える。

というのも、物心がついたのは小学生くらい。たぶんこれは普通。でも記憶があるか否かは置いといて、「自我」が芽生えたのは19歳くらいの大学生になった頃。たぶん遅め。それまでの私は、今思えばそれはそれは幸せに、朗らかに、ボーっと生きてきた。自分の将来を憂えているようで、それは学校からの課題のひとつでしかなかった。中学時代の勉強オタク期をピークに、受験勉強もなあなあに、自分事の何にも熱中せず、他人の人生ばかり追いかけていた。

その反動かのように、大学時代は自分が何者であるかに熱中した。自分を表現するための言葉を吸い取る勢いで本を読んだ。いろんなジャンルを網羅し、世界を見た気になっていたが所詮自分の興味の範囲でしかなかった。嘆いているわけではなく、私の好奇心には行動力が伴わないので、背伸びしすぎても全身を痛めるだけだと気づいた。これも自我があるゆえの成長痛だと思う。

 

またまた他人の人生に熱中した。思慮深いアイドルに自分の自己意識と人生観を重ねて自分が作り上げられていった。世代の近い作家の作品を読み漁ることで未熟ではない若さが正義だと信じるようになった。自分もゼロから何かをつくる未熟ではない若人になりたかった。

こんなにいろいろ考え過ぎると、自分が何者かわからなくなる。そのことに気づいた頃には、高校時代に課題のひとつだった「将来」は現実になっていた。人生に辻褄合わせは存在しないなあ、と思った。

 

まだ若いとか、人生いくらでもやり直せるとか、そういうことを頭では理解していても、何かを失くす一瞬の残酷さを知ってしまうほどには大人になってしまった自分。
でも同時に、キラキラと人生の物語を紡いでいるように見える人たちも、たぶん自分と同じ。そう思えた。自己意識が自分を含むあらゆる人たちを肯定できた時、私にとっての正義はエンタメだと気づいた。未熟ではない、未熟さを良しとする若さ。それがエンタメだと思った。この世にあるコンテンツを消費することではない。自己意識の広がる自分という世界をエンタメ化すること。意味のない虚構。妄想。漢字を羅列するとなんだか怖くなるが、私が言いたいのは楽しもうよ!ってことなのだ。

 

「〇〇女子のモーニングルーティン」
とコントインしながら目覚める。朝が苦手で、無気力な過去の私からは考えられないほど、やるべきことをこなし、自分を大切にした生活を繰り返す。

嫌な人がいても、その人が出てくる芸人さんのコントを妄想して鼻で笑ってやる。ついでにちょっと呪う。私の生き霊でギックリ腰になれ〜とその場を去る。これは自己意識が生んだ意地悪な自分。あんまり良くない。

悲しいことがあったらドラマの主人公になる。現実を現実として捉えないことにピキる人間を横目に、小説の冒頭を考える。作家の主人公。

でもこれらは私の脳内で繰り広げられているだけで、私が何者かになったわけではない。

何者でもない私の心は、誰にも消費されないエンタメである。だけど溢れ出る自己意識を素直に曝け出すことでいつか考古学者とかが見つけ出してくれたらいいなと思い、文章を紡ぐ。

もしも私が芸能人だったら、ヤバいやつ認定されて話題になる。芸能人じゃなくて良かった。

何者でもない私の文章をここまできちんと読んでくださったあなたは、たぶん優しい考古学者になれますよ。


あんまりなりたくないですよね。
やるべきことはやらなきゃだけど、何者にもならなくていいです、たぶん。

病める時も健やかなる時も笑い合うことを誓いますか?

 先日(2月5日放送)の「永野&くるまのひっかかりニーチェ」で興味深いことを話していた。


フィンランドは幸福度が高いからバラエティなどのお笑い文化がない」

「友達と楽しく笑っている人はお笑いを見ない」


 つまり、ちょっと極論を言えば、現実を楽しんでいる人は非現実をわざわざ楽しむ必要がない、みたいなことだと解釈した。これはかなり核心をついているなと思った。というのも、私がそうではない人間だからである。

 この番組は基本的に「そういう考え方もあるよね〜って感じで見てね」とケムリ先生が本編とバランスをとる時間で言っているように、永野さんとくるまさんのちょっぴり過激な、でも理論的な偏見がたくさん飛び交う番組なので、面白いフィクション弁論大会を見ている感覚で受け流しているのだが、今回の意見は刺さってしまった。受け流せなかった。だから私も1人弁論大会を開きたくなった。

 

 前職を辞める時、かなり精神的に参っていた。かなり病んでいた。今や過去として語れるまでになっても「病んでたわ〜」と笑うことはできないくらい病んでいた。人生にも自分にも希望が持てなかった。辞めてからもしばらく自分の殻に閉じこもっていた。元々内気な性格ではあるが、こんなことは初めてだった。
 就職する前からお笑いには興味を持ち始めていた。といっても、流行りの歌を聴き心地がいいから聴いているのと同じ感覚で、特定の誰かにハマっているような熱心さはなかった。

 前職を辞める直前の時期、2023年、令和ロマンがM-1で優勝した。2022年の敗者復活戦を見た時、「こんな面白い人たちがいるんだ」と衝撃を受けた。「のびちゃん、もう春よ!」で一気に心を掴まれた。正確には、腹筋を鷲掴みにされた。めっちゃ笑った。その時からYouTubeを見漁り密かに応援していた。トップバッターで暫定1位の「令和ロマン」という文字を、リビングのテレビで横目に見た時、「すご、決勝行ったんだ」と思った程度だったため、後から優勝したことを知った時は慌てて録画を見た。録画までするようになったのはその時が初めてだったので、すでにお笑い沼への道のりを歩み始めていたのだと思う。ちなみにマユリカも敗者復活戦でハマった。敗者復活のネタより、YouTubeで出てきた「ドライブデート」のネタでハマった。わざわざ路肩で停車して大塚愛の「さくらんぼ」の続きをニコニコで歌う阪本さんのところでこれまた腹筋を鷲掴みにされた。売れるというか人気が出る人は素人目にもハマる何かがあるんだろうなと思う。だかしかし今やなんでも楽しめる鬼ツボ浅人間になってしまった。家族とは基本的にツボが合わないため私が1人で笑っているヤバい人になることは多々ある。でもこの世にエンタメがある限りハッピーでいられるじゃん、と病んでた頃からは想像できないくらい前向きではある。

 

 話を戻すが、2023M-1は令和ロマンがトップバッターだったため流れで全組見た。前のブログにも書いたが、血を流さない綺麗な戦いだなあと思った。お笑い、ないし芸人というのは雑多で泥臭いイメージだったので、価値観がガラッと変わった。自分が置かれている現実の薄暗さがよりM-1という舞台の華やかさを鮮明にしたのかもしれない。それからというもの、お笑いのことで頭がいっぱいだった。前職を辞めてからも、なんとか立ち直って再就職に向け現実と向き合っている間も、お笑いや好きなアイドル、ドラマや小説、映画や音楽が心の拠り所だった。
 とは言っても家族は仲がいいし、長い時間他愛もない話ができる友達は、少ないが、いる。いなかったらエンタメどころではないだろうな、といるはずもない世界線の自分に思いを馳せることもある。それでも私が救われたのは、エンタメだった。お笑いという元気玉みたいな文化も、アイドルという特殊な文化も、音楽という崇高で永久不滅の文化も、物語という力を分け与えてくれる文化も全部エンタメ。


 枯渇した社会にささやかな潤いを与える切羽詰まったものではなくて、満たされた社会をさらに豊かにする、そういうものがエンタメだと胸を張って笑い合える時が来たらいいな、と思うただのお笑いファンであった。

「趣味:ラジオ」は変?

 転職活動が終わった。なんとか転職先が見つかった。嬉しい。好きなラジオ宛に報告したらいくつか読まれた。おめでとうと言っていただけた。嬉しい。あとは趣味を楽しむ日々を謳歌したいと思う。

 面接の練習は、かなり体力的にも、精神的にも負荷がかかっていた。できればもうやりたくない。唯一リラックスして答えることができた質問は、「趣味」に関するもの。面接シートには、「読書とラジオを聴くこと」と書いた。読書の方が掘り下げやすいだろうと思い1番目に描いたのだけれど、ラジオの方がよく聞かれた。「今の人では珍しい」らしい。こんなにラジオコンテンツで溢れている世の中なのに?

 現代人では珍しいというより、SNS世代である私のような若者(20代)が、色々な媒体がある中でラジオを聴いているのがおそらく珍しいとされているのかもしれない。

「どんなラジオを聴くのですか?」と何度か質問された。芸人さんLOVEな私は実質芸人さんのラジオしか日課として聞いていないのだが、その時は咄嗟に「カルチャー系の、、、その音楽とか映画を紹介するラジオとかですね。あとは、、、芸人さんとか、えへへ」みたいなことを言った気がする。あくまで文化人としてラジオを聴いてますよ、となぜか見栄を張ったのである。NEWSの加藤さんやまっすーのラジオを聴いているので、厳密には間違えていないが、なぜお笑いラジオばかり聴いていることに恥ずかしさを覚えたのだろう。情けない。文化人(自称)失格だ。お笑いも立派な文化だ。伝統だ。そう胸を張って言える。

 そう。正確には私の趣味は「お笑い」なのだ。お笑いという趣味を細分化すると、「テレビ」「YouTube」「ラジオ」の3つになる。趣味テレビも、趣味YouTubeもなんか違うなあ、、、「趣味:ラジオ!」と、こうなるわけである。好きな芸人さんはみんなラジオをしている。有料ラジオも聴いているのでこれは間違いなく趣味だ、と誰にでもなく主張したくなるのはなぜだろう。

 エルフのお2人がつい最近ラジオを始めたから、またまた趣味という幸せの重量が増える。趣味=生活=人生。私のラジオ人生を誰かに否定も肯定もされる筋合いはない。

 ハガキ職人という言葉があるが、今ではハガキを送る形式のラジオはおそらくないので、メール職人というらしい。メール職人の定義は分からないが、職人見習いくらいの存在になって、人生をもっと豊かにしちゃおう!と考えている。

 

推しのマリッジから1週間。

 最近、お笑いにハマっている。正確に言うと2022年のM-1ぐらいからハマっている。令和ロマンにヨネダ2000、マユリカヤーレンズ男性ブランコ、9番街レトロ、NONSTYLEなどなど。2023年のM-1なんかはセットの輝き以上にキラキラして見えた。血を流さない綺麗な戦いだなあと思った。敗者復活戦2位になった時の令和ロマンはYouTubeのネタを漁るぐらい興味津々だった。たった1年後にまさかの優勝を果たしたのだから拍車がかかるに決まっている。つい最近初めてよしもとの劇場に行ったぐらいである。そのせいかYouTubeを見る時間もありえないぐらい増えている。正直めっちゃ楽しい。ヤレロマ(準優勝のヤーレンズと令和ロマン)の尊さについて誰かと語り合いたいくらいである。

 

 と、ここまで加藤さんの話を全くしていないが、加藤さんのことを綺麗さっぱり忘れているわけではない。

 いつも頭の中に加藤さんがいるというより、あらゆる日常の根底に加藤さんがいることに自分ですら気づいていない。後になり「そういえばあれも元はと言えば加藤さん、、、」と自分にびっくりするし、そんなふうにたくさんのアンテナや興味を持っている加藤さんに対してさらに驚きと感動と尊敬が生まれてしまうのである。これらの時間を勝手に“加藤タイム”と名付ける。

 お笑いもまさに加藤タイムである。一昨年2022年のM-1はSORASHIGEBOOKで熱量高く語っていた。それを聞いて少し遅れてハマったのである。去年は加藤さんも見てるかなーと思いながら楽しんだ。ソラシゲでは令和ロマン、ヤーレンズマユリカの話をしていて、「私とツボが一緒だ♡」とテンションが爆上がりした。

 

 ハマる前も芸人さんに対して、面白いとかすごいという気持ちはあった。しかし好きに理由はないのだ。一瞬にして推しができる。

 

 令和ロマンの高比良くるまさん。面白いから「素敵だなあ」に変わる瞬間があった。優勝したのも大きいが、あとからウレアカという企画で容姿を磨く努力をしていたことを知る。知性があるところも加藤さんと似ていていいなあと思う理由である。これはちょっとした加藤タイム。もちろんそれ以外にもときめく理由はあるがこのじわじわとくる沼に、好きという感情に、理由はない。

 好きに理由はないからこそ、好きになりすぎると、その好きを失ったり今までの形が崩れてしまったりすると、足元が見えなくなるように底なしの絶望感に襲われる、つまり深く傷ついてしまうのだ。加藤さんが言いたかったことの深さと自分への刺さり具合にまたまた加藤タイムが始まる。

 

 

 2024年3月3日。加藤さんが結婚した。なんだか「推し、燃ゆ。」の冒頭みたいになってしまったが炎上したわけではなく、たまたま長く応援していた推しがたまたま人生において奇跡でありおめでたい瞬間を迎えただけだ。それだけだ。しかし8年近く応援してきた私は心が炎上しまくっていた。その炎を消すためかとでも言うように涙がポタポタと流れていた。スーッとではない。ポタポタと流れていた。びっくりした。なんの涙なのだろう?と。前触れのない勢いの大きさにびっくりしたのか。素敵な瞬間を迎えたことに感動したのか。加藤さんに愛され愛すことのできる人がいるという事実への嫉妬か。悲しみか。寂しさか。

 おそらく全部違って、全部当てはまっている。今まで足元を支えてくれていたものが一気に崩れ去っていく感じがして、前を向いて歩けなくて、そんな自分のこの先を思うと寂しくて泣いたのだ。それに加藤タイムが既婚者•加藤タイムに変わるのが複雑すぎるのだ。心の拠り所にしていいのだろうか。応援はするけれど、線引きした応援の仕方をした方がいいのか。心に違う拠り所、高比良くるまタイムを設けた方がいいのか。

 いやいや、憧れている人は加藤さんだけだ。憧れているから、魅力が多すぎるから、加藤タイムがやってくるのだ。涙がこぼれたのは、これから加藤タイムに違和感を覚えてしまう自分、少しずつ加藤タイムがなくなっていく自分を想像したら寂しいからだ。白黒、とまではいかなくても、いろいろな景色がただの背景に見えてしまうのではないかと恐怖に襲われていたのかもしれない。涙の正体は寂しさと恐怖だ。でも1週間経って、あの瞬間以外に涙は出ていない。依存していたと言われればそれまでだけれど、少しずつ気持ちの整理ができれば、加藤タイムだなあと、しみじみ実感する程度に割り切れるのだと思う。実際、割り切れている自分もいる。

 

 加藤さん、とりあえず令和ロマンさんと共演しませんか。そしたら私は次に進める気がします。

 こういう希望が自分を助けてくれるので、推しが生きているだけで尊いと思ってこれからも生きていこうと思う。絶対に読まれないと思うけれど、読まれたら困るけれど、結婚おめでとうございます。アディオス。